成河インタビュー 舞台『検察側の証人』 「自分が陪審員として座らされてしまっている、そんな作品になる」
――「心から信頼する小川絵梨子さん」とのコメントも出されていますが、具体的にはどんなところを信頼されているのでしょうか?
稽古場レベルでもそうですし、これまでの作品についてもそうです。絵梨子さんは、どんな作品に対しても「身近なものにする」という矜持、能力がとても高い方。見ている人間や作る人間にとって“身近なものであること”って、言うのは簡単ですけど非常に難しいことなんです。
とくに海外の作品を翻訳して扱う場合において、「本当に隣にいる人たちがしているような会話にどこまで近づけるか」っていうのがリアリズムの難しさで、すごくハードルが高い。絵梨子さんは、そういった演劇の方法論を長年に渡ってきちんと勉強されてきた方なんですね。
具体的にその方法論を日本の演劇に持ち込んで何をしようとしているか。絵梨子さんの言葉を借りると、「ベーシックを作ろうとしている」ってことです。ベーシックがないまま才能や努力でやって来たのが日本の演劇のすさまじさ、面白さではある。ただ、ベーシックがないから先細りになるってことも同時にずっとあったんですよね。絵梨子さんが見据えているのは、そういう100年計画なんですよ。
そういう演劇業界に対する広い視野だったり、「日本の演劇がどこから来てどこへ行くのか」っていう視野を信頼していますし、大変尊敬しています。そしてまた、すごく同調し共感していますね。
日本と海外では扱う言葉そのものが全然違う
――『検察側の証人』は、ミステリーの女王と呼ばれるアガサ・クリスティが手掛けた戯曲です。世界的な戯曲を日本で演じるにあたって意識されていることはありますか?
僕の個人的な印象ですけど、海外の作品を翻訳して、いかに現代に近づけるかっていうのが絵梨子さんのメインテーマじゃないかと思うんですね。
一方で、日本の作品の多くは“書き言葉”でセリフが書かれている。「作家性」や「作品性」と言われる部分で、その都度実験はあったと思いますけど、ベースには書き言葉としての面白さがあって、それは西洋のリアリズムと真逆のものなんです。だから、日本と海外では扱う言葉そのものが全然違う。それは言語が違うってだけにとどまらず、表現する世界観が違っていたりするんですよ。
実は、海外の翻訳ものを日本の表現主義的に表現してしまうってことが多々あって。絵梨子さんはそこにメスを入れて、表現主義は表現主義、リアリズムはリアリズムで1回ちゃんと自立させて分けてみようというスタンスを持っている。そのうえで、「その2つが混ざるとどうなるんだろう?」という視野で考えていらっしゃると思うんです。
つまり、三島由紀夫先生や井上ひさし先生といった作家の文体や演劇に、「じゃあ自分の方法論っていうのがどこまで通用するのか」ってことをチャレンジしていらっしゃる。そういう姿勢も含めて僕はすごく共感しているんですけども。なんかこれ、ただの絵梨子さんのファンみたいになってるな(笑)。
いずれにしろ、「絵梨子さんだからできること」っていうのはあります。『検察側の証人』は、非常に古い台本なので、それを現代の言葉とかやり取りで成立させられるかっていうのはそんなに簡単じゃなくて。そこは役者として絵梨子さんに非常に期待していますし、作品としても期待していいところだと思います。